2016年,東日本大震災の被災地・岩手をめぐる旅の続き。
ちょうどこれを書いている頃,
台風10号が観測史上初めて東北沿岸から台風が上陸するという珍しい現象が起き
川の氾濫などで12名の方が亡くなられた。
ご冥福をお祈り申し上げたい。
不謹慎かもしれないが,怖い災害は何も地震や津波だけではないと
改めてハッとさせられる出来事であった。
自然災害は大きな爪痕を土地に残し,そこに住んでいる人々の心も傷つける。
しかし,自然災害から得た教訓を後世に伝えなければならないというのも
正論だし,それが合理的ではある。
難しいのはその2つのバランスだ。
陸前高田市編では,津波被害を後世に伝える震災遺構「タビック45」を紹介したが
ところ変わって大鎚町では,ある建築物を震災遺構として保存するか
あるいは解体するかで今も名を揺れている。
その中心である「旧大鎚町役場」を今回は紹介しようと思う。
残すか否か。旧大鎚町役場の震災5年目のすがたを見つめる。
保存か解体かで揺れている旧大鎚町役場。
2016年時点で大鎚町のがれきのほとんどはすでに運び出されており,
区画整備が行われている状態であった。
そんな中,唯一当時の津波被害を伝える建築物が
旧大鎚町役場である。
その役場の前には慰霊碑が置かれている。
2011年3月11日の地震発生後,この大鎚町役場の正面玄関前に
災害対策本部が設置されようとしていた。
当時の町長や幹部役員が揃ったところに,津波が押し寄せ
40名が犠牲になった場所である。
なぜ設置が正面玄関だったかというと,
まず津波が役場まで到達することを想定していなかったことがある。
この建物はそもそも屋上に出る階段もなく,
津波到達後,一部の職員だけが1つしかないはしごを一人ずつ登り助かったという。
しかし,当時の町長を含む幹部の大半は犠牲になったため,指令系統が麻痺。
その後の避難や避難場所運営にも多大な影響を与えている。
旧・大鎚町役場が伝える津波の破壊力。
当時の津波の破壊力は,
唯一残された旧大鎚町役場の壁が静かに物語っている。
下の写真は水圧で2階部分の壁に巨大な穴が空いた役場の側面である。
建物の一部には屋上へ上がる唯一のはじごが今も残っているが,
その下は破壊されており,何があったのかは今となってはわからない。
別の方向から建物を見ると,
今もガラス窓が残っている部分が見て取れる。
この部分が津波の届かなかった部分である。
解体方針が決まっている旧・大鎚町役場。
以前,陸前高田市で津波被害の恐ろしさを伝える建造物,
「タビック45」を紹介した。
この建物は震災遺構として保存が決まっている。
この「タビック45」とは異なり,
旧大鎚町役場は別の選択に傾きかけている。
遺構として「保存する」のではなく,「解体する」という選択肢だ。
保存に賛成の意見は,どちらかというと町外からの意見が多いと聞く。
震災遺構として保存することで津波災害の教訓を後世に伝え,
防災教育に役立てるとともに観光スポットして活用するというものである。
それに対し解体派は大鎚町民の中で多数を占めているそうだ。
もともと大鎚町は大きくない町である。
ここで被災した40名の遺族にとって町役場の姿は津波の記憶を
フラッシュバックさせる異物でしかなく,
早く当時の被害を忘れさせてほしい,というものである。
実際,現在の町長である平野氏は早期解体をマニフェストに掲げて立候補して
当選しているため,2016年8月時点では,解体という選択肢が有力である。
ちなみに,保存と解体については費用面からも検討されている。
言わずもがな,すでに壊れているものをそのまま残すというのは
技術的にも容易ではないため,解体の方がコストが安いのも事実。
小さい町であり,震災後の人口流出の加速による過疎化の進行もあるため
保存にかかる費用は町の財政から見てとても無視できるものではないのである。
おわりに:何が正解かなんて誰にも分からない。
防災教育のため,と正論を述べるのは容易いことだが
正論は正しくとも,正論をかざすことが正しいとは限らない。
実際そこに住んでいる町民の意見をないがしろにしていい理由にはならない。
もし解体されれば,
この記事の写真も貴重なものとなるかもしれないので
些細な形とはいえ,この問題を今回取り上げさせてもらった。
どういう選択が良いのか,もしくはどのように折り合いをつけたら良いのか
ベターな選択というのは実に難しい問題である。
もしこの記事で少しでも興味を持っていただけたのなら,
いつか東日本大震災の被災地を訪問してみることをお勧めする。
一見は百聞にしかずという言葉がとても理解できる体験を得られるだろう。