岩手の旅シリーズの続き。
東日本大震災では死亡者・行方不明者・負傷者を含めて計24607名の犠牲者が出た。
うち死亡者は15894名,その9割以上は津波による溺死であることが確認されている。
その中でも15m以上の波に襲われた陸前高田市の被害は大きく,
津波で約1800人,浸水域人人口の約1割にも昇る尊い命が奪われた。
震災から1年経った2012年に私は1度陸前高田市を訪れているが,
その時は瓦礫の撤去がようやく終わった頃であった。
街があった形跡があるのに,何もかもがなくなっている街の姿に
絶句したものだ。
あれから5年。
陸前高田市は今まさにかさ上げ工事の真っ只中。
劇的に変貌する街の中に今も残る震災遺構「タビック45」について,
今回は紹介しようと思う紹介しようと思う。
被災地を見たことがない人に,伝わるものがあれば幸いである。
震災遺構「タビック45」を訪ねる。
陸前高田市といえば「奇跡の一本松」が有名である。
津波の被害から逃れた一本の松で,
枯死状態であることが分かってから多額の費用を投じて
保存プロジェクトが行われたことはまだ記憶に新しい。
その1本松からやや離れたところに震災遺構がある。
旧道の駅「高田松原」にある「タビック45」と呼ばれる建造物である。
津波によって海岸沿いの大多数の建造物ががれきとして処分された中,
この建物だけが後世に被害を伝えるために現在も残っている。
「高田松原」という文字の左側にある赤いラインを見て欲しい。
そこには津波が到達した高さが書かれている。
数値で見る14.5mとピンとこないが,
実際の14.5mの高さを垣間見ることで,その津波の高さを実感することができる。
この震災遺構の近くにあるガソリンスタンドの看板にも
同じく建物に津波の高さが表示されている。
こちらはタビック45のすぐ近くだが,水位は15.1mに登っている。
タビック45に残る津波の爪痕
タビック45の話に戻そう。
この震災遺構は建物の中も震災当時のままを残している。
2012年にも訪れたが,ここだけは2016年の今もまったく変わっていない。
そこには津波の爪痕が今もくっきり残されていた。
また,タビック45には
維持が断念された被災松が屋外に展示されていた。
こちらは本物である。
陸前高田復興まちづくり情報館に残る震災後の軌跡
震災遺構の横には「陸前高田復興まちづくり情報館」がある。
震災前と後,そして復興の様子について記録を展示している施設である。
おわりに:震災遺構は復興する街をどんな気持ちで眺めているのか。
陸前高田市を始め,震災で亡くなられた方のご冥福をお祈り申し上げます。
今回紹介した震災遺構の隣にある慰霊碑に手を合わせるとともに
このような震災遺構に触れて教訓を得られることを嬉しく思う。
さて,今回は陸前高田市に残る震災遺構「タビック45」を紹介したが,
この遺構を除く市内の様子は,かさ上げ工事を中心として
現在その姿を大きく変えようとしている。
例えばこの震災遺構の周囲からはこんな姿を見ることができる。
遠くに見えるのは,震災後に建築された防潮堤である。
2012年の時点ではまだ海が見えたが,今はもう全く見えない。
そして防潮堤の反対側にはかさ上げ工事の様子が見える。
震災遺構はどんな気持ちで変貌する街の姿を見ているのだろうか。
次回はかさ上げ工事の様子について紹介したい。